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東洋亭パーツ館新本店

よがらし日々迷走記

ぎゃーす


 なんでだ。orz

 とったつもりで、大騒ぎしてたのに。

09060512.jpg

 なんで買ってないんだ、矢口の2着。てっきり勝ったと思ってたのにぃ。しくしく。

 333だから、捲りの1着、先頭のつっこみ2着っていうのが基本なのに。 つか、ふつ
うならそこを押さえるんだけど、坂上の野郎がよさそうに見えたんで、天秤にかけた結果、切っちゃったんだろうな、矢口を。しくしく。

 このへんは自分の思考回路の問題だけど。

 でもここで400枚、とるととらないとじゃ大違いだからなあ。これはちょっと……いや、かなり熱くなってしまいました。やる気はなかったけど、京王閣記念、参戦だな。わかりましたよはい。

 こうやって傷をひろげるんだよね、たぶん。わかっちゃいるけどやめられない。つか、やめる気ないし。あしたもヤラれますぜ。はい。
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久しぶりに虫が


 出てきた。のーみそに巣くってる虫のなかでも、いちばん始末に悪いやつ。

 PC自作虫。

 ああああああ、そういう季節か。orz

 いま使ってる主力機・震電は耐用10年をめざして計画したものの、5年2カ月たった現在、どうも息切れしてきたっぽい。メンテナンスはしているけれど、CPU温度が高どまりなのが、どうも不安だし、HDDとパワープラントはどっちみち交換時期にきてる。

 もし交換して、数カ月でいかれたら、目もあてられない。ってことで、ここは新マシン
を組むほうがよさそう。つか、たぶん新マシンにしたほうが、コストパフォーマンスがいいはず。

 それにもうひとつ。技術の継承という側面もある。ヽ( ´-`)ノ

 最後につくったのがこれだから、もう2年半以上になるわけで。これじゃ、つくり方を忘れちゃうよ。嘘。

 OSのチューニングも、最後がSA1Fで、これだから、やっぱり2年ぶりくらいになる。こっちはマジで、やり方忘れてるし。

 というわけで、つくる気になりましたよ久しぶりに。はい。

 締切の関係で、実際の作成は8月中旬か10月はじめ。たぶん後者になるでしょう。

 それまでのお楽しみ苦行として、まずはパーツ選びから。第1回はCPU。TDPの低いPhenom II、スロットAM3版が条件。

 じつはAM3版はあんまり出てなかったんだけど、いま台湾でやってるCOMPUTEXで、新ラインナップが増えたそうだ。たとえば、ITMの「省電力モデルにX2──選択の幅が広がった「AM3」CPUを一挙に試す」という記事。

 この記事のベンチマーク結果を、小1時間見て検討してたんですが、ここひとつ、おもしろい傾向を見つけた。このピーク時の消費電力。

 意外にも、TDP65Wの「Phenom II X4 905e」の消費電力が、いちばん多いのであった。あれま。

 たとえば、同じ仕様で3コアの「Phenom II X3 705e」とくらべると、理由がよくわかる。つまり、TDPは1コアあたりの消費量で、同じTDPだと、X3とX4では、X4のほうが1コアぶんだけ総消費電力が高くなるということ。

 これは微妙ですよ。うちの場合、それほど負荷をかけるタスクはさせないんで、こっちのアイドル時のほうが、参考になるかもしれないけど。

 それでも、ピーク時174Wはでかい。パワープラントも500Wじゃたりないかもしれないし、熱との戦いもそれだけシビアになる。

 そうなると、4コアはあきらめて705eになるか……微妙だよなあ、これは。

 というようなことを、しばらく考えつづけることになりそう。これは正直、至福の時むずかしいっすよ。いやほんとに。興味ない人には、ただのたわごとですけど。(^^;

 でも、PCを完全に使いこなそうと思ったら、これはぜったいに避けて通れない道なのですよ。いやほんとに。ほんとだってば!

【11.04.16追記】
TDPだけど、705eはピーク時で65Wと判明した。つまり、3コア合計で。なーんだ、そういうことなのか。

グリペンのプロモfor India


 またしても更新。きょう5本め。締切をクリアした、よろこびの表現。ヽ( ´-`)ノ

 サーブ社はどうなっちゃうんだろうと思っていたが、航空機部門は元気らしい。JAS39グリペンの新しいプロモヴィデオがアップされてた。



 これ。なんと、インド向けだそうだ。複座でカナードありのデモンストレーターを使ってるんだけど、これがなんだかかっこいい。

 しかも、いわれてみると、なんとなくインド向けっぽい感じがするからふしぎだ。もしかして、ボリウッド映画っぽいとか? そーいえば、『スラムドック』でも、こういうカットバックっぽい手法が使われてたような。

伊東FI、決勝


 さて久しぶりに勝負。花月とかもやってるけど、ここはやっぱり伊東で。

 S級決勝12R。先行型がそろって、523 14 86 79の4分線。たぶん。

 雨だし、先行有利と見て、金子も矢口も乾も主導権をとろうとするはずで、赤板から展開がめまぐるしく変わりそうな予感。当然、金子のところがライン3車だし、いちばん有利っぽい。

 でも、雨で強さを発揮するのは、じつは小橋だったりする。主導権をとろうとやりあってるうちに、うまく中団をキープした小橋が捲っちゃうほうに1票。ギアを3.79に下げたのも、機動力重視のつもりだろうし。

 相手はうしろの伊藤大志と、金子、坂上あたり。7-259-12359。

栗本薫さんとの縁3


 最後は栗本さん名義のほう。ぢつは『魔界水滸伝』用に、クトゥルー神話の資料をつくったのは、どうも私らしい。

 これもキャナルがらみなんだけど、ある日、キャナルの長老だった故・金田真義さんから、クトゥルー神話の資料をつくってくれと、たのまれた。聞くと、栗本さんが興味を持っていて、くわしい資料を探しているという。

 当時はいまと違って、クトゥルーを知ってる人間は、日本に1万人といなかったんじゃないだろうか? 国書刊行会から、荒俣さんが『ク・リトル・リトル神話集』を出したのが76年。これと、73年に出た歳月社版「幻想と怪奇」のラブクラフト&クトゥルー特集くらいしか、日本語のまとまった資料はなかったはず。

 したがって、解説できる人間は10人かそこら、せいぜい50人くらいだったようで、栗本さんの周囲には資料をたのめる人がいなかったらしい。

 一方、私はこの76年くらいから82年くらいまで、かなりはまっていて、日本で刊行されたクトゥルーがらみの作品はすべて持っていたし、キャナルで出してたコピージンにも、それをネタにしたばか話を書いたりしていた。

 それを見ていた金田さんが、私に声をかけたのだった。

 金田さんと栗本さんの関係はよく知らないが、同じ早稲田のミステリ研(ワセダミステリクラブ)出身だし、かなりつきあいがあったらしい。あれ? 年は違うけど、もしかして同窓か?

 そういや、大学時代、わしらが根城にしていた高田馬場の雀荘「トモン」にも、出没していたそうだ。栗本さん。見たことはないけど。

 閑話休題。

 それで、前にも書いたように、資料づくりは得意だったんで、たしかレポート用紙20数枚のデータやらなにやらをつくって、金田さんにわたしたのであった。

 そしたら、その1年半後、『魔界水滸伝』の刊行がスタートして、愕然としたわけですね。クトゥルーが幻魔になっちゃったよまさか、こういう小説になるとは思わなかったもんで。

 というわけで、その資料が実際に栗本さんの手にわたったのかとか、栗本さんがそれを参考に『魔界』を書いたのかとか、そのへんは明確じゃないんだけど、 とにかく、そういうエピソードがあったのでした。

 当時の資料の一部は手もとにあるんで、もしコピーでも発見されれば、正確なことがわかるんだけどね。当時だから、手書きだし(笑)。

 ただまあ、当時のクトゥルーの認知度はそういう感じだったんで、可能性は高いというか、まずまちがいないと、勝手に思ってるんですが。

 おしまい。

中島梓さんとの縁2


 もうひとつ、これも光瀬さんがらみ。そういうわけで、私は22~24歳くらいのとき、光瀬さんの短編集の大半に、なんらかの形で関わっていたわけです。

 きっかけはキャナルで出した『東キャナル年鑑vol.3』。このなかで、のちに「宇宙塵版・派遣軍還る」と呼ばれる長編を復刻したんだけど、これが道をあやまる元凶になった作品というか(笑)。

 で、あるとき、名前も聞いたことのない出版社の人から電話があって、うちでも短編集を出したいというのですね。当時、光瀬さんはこーいう話がはいると、自動的に私の電話番号を教えていたわけで、いま考えると無茶な話ですが。

 その某出版社(つか、名前忘れた)の編集の人に会って、話を進めた企画が、なぜか「中島梓が選ぶ光瀬作品ベスト集」というものだったのです。

 もうその本自体、手もとにないんで、当時どういう経緯でこういう企画になったのかとか、まったくおぼえてないんだけど、中島さんが選ぶ作品集の作品を、なぜか私が選んだという、そこだけは強く印象にのこってるんだよね。

 もちろん、最終的な取捨選択は、中島さんがやったわけですが。

 たぶん、直接にお会いしたのは、このときじゃないかな。自信ないけど。このときか、SFショーかなんか。大会ではなかったはず。

つづく

中島梓さんとの縁1


 ようやく時間ができたので。

 じつは直接の縁はない。お会いしたのは、たしか1度だけ。どこでだったかは、もう忘れちゃった。でも、ダンナの今岡清さんとは、ずっとつるんでたんで、むしろその奥さんというイメージが強い。

 そもそも、ろーだんをやることになったのも……そのへんがいかにも「縁」という感じなんですが。

 もう書いちゃっていいと思うけど、知ってる人は知ってるように、おふたりが結婚するときは、ひと騒動あった。そのため、今岡さんが出社できなくなり、会社の外で仕事をしていた時期がある。

 そのころ、私は光瀬さんの書生みたいなことをやっていて、短編集に載せる作品選びとか、原稿確保とか、そういうのを担当していた(つか、なんとなくまかされちゃったんだけど)。で、今岡さんとも、池袋の耕路だったと思うけど、月に2回くらいのペースで会って、うちあわせをしていたのですね。

 その席で、私がろーだんを読んでるとか、自前で資料もつくってるとか、そういう世間話もいろいろしてて……その7年後かな、いきなり電話がかかってきて、ろーだんの編集をやることになっちゃったわけです。

 あいだはめんどくさいんではしょりますが。

 つまり、あのころ、おふたりが結婚していなかったら、いまろーだんをやってない可能性が高いのです。 まあ、当時の早川の編集部には、ほかにも友達、知りあいが数人いたから、その人たちから話がきたかもしれないけど。

つづく。