東洋亭パーツ館新本店

よがらし日々迷走記

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ここで会ったが8年め


 ブログをはじめて、きのうでまる7年。きょうから8年めに突入だそうだ。長いような、あっという間のような。

 2004年当時というと、nifty serveが終焉を迎え、秘密結社の電脳拠点もYahoo!にうつっていた時代でありました。

 ネットの腐海に最初にもぐりこんだのは、1996年2月。以来、ずっとnifのフォーラムとかホームパーティだっけ? あと、パティオ? そーいうあたりに駄文をたくさん書いていたわけです。

 でも、それがなくなってみると、ただの掲示板とか、SNSみたいなメディアはぜんぜん魅力がなかったのですよ。発信力がないというか、つまんないし。それで、だったらむしろ、自分だけで書きたいことを、無節操に書きなぐるほうがいいんじゃないかと思い、そのメディアとしてブログを選んだのでありました。たしか。

 そうそう。 直接のきっかけは、直前に開催された宮杯の終了後、松本整が電撃引退を発表して、それについて、どっかで一発語りたいと思ったんだったな。だから、最初から競輪がらみだったということで。

 ただ、当時は競輪をあつかうブログはほとんどなくて、星武さんの「さりげなく理論的に」と、いまは停止しているけどかぎぶーさんの「競輪日記」くらいじゃなかったかな。

 だから、スタートして1年くらいは手探り状態で、公営競技半分、それ以外が半分くらいのペースだったと思います。

 その後、ネタにつまってきたのもあって、競輪の予想を載せはじめたら、これが車券的になかなかいい感じで(笑)、以後は予想が半分くらいになって今日にいたっております。はい。

 とはいえ、7年間でいちばんPVを集めているのは、意外にもひこーき関連の情報なんだよね。

 なかでも、F-15SEは日本で最初に情報を発信したってこともあって、最盛期には1日2万PVを達成したし、のべ30万PVくらいを稼いでいる。たぶん。

 2位はパソコン関連。とくに、SA1Fの徹底チューニングのエントリーは、ぜんぶで5回あることもあって、いまでもへたすると1日70PVくらいいっちゃうんですよ。だから、これも累計では10万PVくらいいってるかもしれない。

 あと、おもしろいのは川崎中継のMC、宮田めぐみさん。 結婚式のもようなんかを紹介しているもんで、宮田さんが午後4時台のTXの番組に登場すると、その瞬間だけ1時間に100PVをこえるという、すごい現象が起きます(笑)。

 という感じで、気がつけば恐ろしいことに、軽く150万PVをこえてますが、これもひとえに私の力です(笑)。

 最近は息切れぎみで、最盛期の半分くらいしか更新してませんけど、そーいうわけで今後ともひとつご贔屓に。m(__)m
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家の光2


 きのうのつづき。

 そういうわけで、当時はライターがメインで、毎日のように取材があった。とーぜん、いろんな人に話を聞くわけだけど、そのなかでいちばん印象にのこっているのが、星野仙一さんと、大塚範一さん。 つまり、NHKの「サンデースポーツ」だっけ? あれの取材だった。

 当時は「サンデースポーツ」がものすごい人気で、その人気をささえる男・星野仙一の魅力に迫るという、『家の光』の企画だったと思う。

 当時はほかに2社ほど、テレビ・芸能関係の取材をしてたんで、もしかしたらそっちかもしれないけど、たしか『家の光』の名前があったから、スタジオにもはいれたと記憶しているんで、たぶんあってるでしょう。

 で、まず、星野仙さん。 このころは政治家(現役大臣をふくむ)から一般人まで、ずいぶんいろんな人と会ったけど、人間的にとびぬけて大きいと思ったのが、星野さんだった。

 なんというか、包容力なんですかねえ。現役時代とか、のちの監督時代とかの「闘将」のイメージはなくて、おだやかに、しずかに話すんだけどね。話術の巧みさもあって、取材が終わったときには、マジで心酔しておりました。

 あれだけの大きさを感じたのは、あとは城山三郎さんだけだったな。そのふたりが、この53年のあいだに出会った、いちばん度量の大きな人間でありました。

 そして、もうひとり、大塚さん。星野さんの魅力を分析してもらうということで、広報を通じてインタビューを申しこんだんだと思う。 当時のNHKでは、こういうシチュエーションで、アナウンサーにインタビューするっていうのは、あまりないことだったんですよ。たしか。でも、大塚さんは快くひきうけてくれて。

 しかも、話し方が丁寧で理路整然としていて、いってみれば「コメントをそののまま書くだけで、記事いっちょあがり」みたいな、的確な話をしてくれたのです。

 ふつう、25歳くらいの駆け出しのライターに、そういう接し方をしてくれる人って、あまりいないわけで(すくなくとも当時は)、誠実さがびしびしと伝わってきて、これまたいっぺんでファンになってしまったわけです。

 それから10年くらいして、誕生日と血液型がいっしょだと知って、なるほどと納得したりしたのは、どーでもいい話ですが。



 きのうの『めざましテレビ』で、そのおふたりが10年ぶりに対談をしていて、それで当時のことを急に思いだしたしだい。

 考えてみれば、自社広ばっかりの『めざましテレビ』を、まがりなりにも見つづけているのは、大塚さんが出演しているからなんだよなー。というお話。

家の光


 先月、椅子が壊れて、新しいのを買ったわけですが。 そうすると、壊れた椅子は粗大ごみとして回収してもらう必要があるわけで。

 うちの地域では、衛生組合に電話で回収を依頼して、「粗大ごみ処理券」というのを購入。 当日それに名前と回収日を記入して出すという、有料システムになってるんだけど、問題なのはこの処理券。売ってるところがかぎられてて、しかもふだんは行かないような場所ばっかりなんだよね。

 しかも、酒屋さんなんかが多いため、営業開始が遅い。早くて11時から。

 で、販売店一覧を見ていたら、家からいちばん近いのは、徒歩5~6分のJA支店だということがわかって、しかもここなら朝8時半からやってる。

 いままで、JAは自分の生活環境とは別次元と考えていたんで、意識から排除してたんだけど、松下奈緒さんのCMで、一般人もはいれることがわかったんもんで(笑)、ここに行ってみたのですよ。

 なんと、JAの支所にはいったのは、農協時代をふくめて、生まれてはじめて!

「この年になっても、身近で人生初なんてことがあるんだ~」などと、勝手に感動してたりして。ヽ( ´-`)ノ

 ちなみに、JAの支店は特定郵便局に近いものの、来店者がすくないだけ、対応がいちいち懇切丁寧。こんどから、ここですませられるものは、ぜんぶJAにしようと思ったりして。

 それで、窓口で処理券が出てくるのを待つ数十秒のあいだ、あたりをきょろきょろしていると、目に飛びこんできたのが、なつかしい雑誌。 これがタイトルの『家の光』であります。

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 市ヶ谷にある、家の光協会が発行元。そういえば、これって全国の農協がおもな販路なのであった。すっかり忘れてた。

 で、なにがなつかしいって、あたしゃ1年半くらい、この雑誌でテレビ・芸能関係の記事を断続的に書いてたのですよ。

 当時いた編プロが市谷だったもんで、協会にもよくかよったりして。84~85年くらいかな、駆けだしライターだったころで、まあ修行させてもらったような側面もあるんですが。

 当時、『家の光』といえば、ある意味ビッグネームで、駆けだしライターにははいれないようなところ、たとえばNHKのスタジオの奧なんかにももぐりこんだりしたもので。

 5、6年前、市ヶ谷に行ったとき、協会の前を通ったら、看板もちいさくなって、業務もかなり縮小しているみたいだったんだけど、いまもしっかり発行されてるんだねー。

 と、とてもなつかしくなって、思わず1冊、買ってきてしまったわけですが。

(つづく)

なっちゃん、逝く


 俳優・演出家・声優の野沢那智さんが、肺癌で亡くなった。72歳。スポニチの「アラン・ドロン、C―3PO…野沢那智さん死去」など。 以下、あえて「なっちゃん」と呼ばせていただく。

 なんというか、子供のころ、文化・文芸面で非常に影響をうけた人がいろいろいて、なっちゃんはチャコさんとならび、その初期のひとりだったのです。この系列では、あとキンキンと小沢昭一師、吉田拓郎。 つまり、ラジオの時代ですね。

 小学校3年くらいからラジオを聞きはじめて、4年のときかな、パックインミュージックがはじまったのは。とくに、ナチチャコ・パックは小学生だってのに、はじめから聞いていて、これで人生が変わっちゃったような気がする。たぶん。たとえば、あの『金瓶梅』とかね。(´・ω・`)

 まあ、『金瓶梅』については、こーいうすごい話があるんだってところからはじまって、『水滸伝』の存在を知り、家にあった吉川英治版の『新・水滸伝』を6年くらいのとき読んで、以下は『神州天馬侠』『三国志』なんかにはまったあげく、大学のころ国枝史郎に出会って、こういう文学観が形成されちゃったとか、そーいう影響ですが。考えると、すごいねじれ方だ。

 ほかにも、いろんな局面で、なっちゃんは一時、神みたいというか、「この人のいうことはすべて正しい」みたいな存在だったのです。そうだな、中学を卒業するくらいまで。

 たとえば、痔の手術の話は、なぜかいまでも鮮明におぼえてる。というか、すごく痛そうな話だったんで、自分は痔だけにはなるまいと、当時心に誓ったりしたのをおぼえてるんですが。(^^;

 以下、書きたいことはいっぱいあるけれど、それはまたいずれ。つか、1時間くらい、いろいろ書いたけど、話が脱線しすぎるので削除した。(^^;

 ともあれ、小学生時代からのひこーき・軍艦マニアが、あまり右側に行かずにバランスをたもっていられるのも、たぶんなっちゃんのおかげじゃないかと思ったりして。それが、いちばん影響をうけたところかも。

 長いあいだ、本当にお世話になった気がします。

 合掌。

【追記】
● きょう思いだしたキイワード(備忘)
ヤングポップス1010 小島一慶&リリー・チェン  ヤングスタジオ・ラブ
千一夜物語?(アラビアン・ナイトかも) 西遊記? 紅楼夢(やった?)
水森亜土 劇団未来劇場 内海賢二 三銃士 オデッセイ
さらばアディオス、ムチャチョス
レッドシャークのプラモ

● 見つけたエントリー
深夜版ラジオマンガ その1
深夜版ラジオマンガ その2
「ラジオマンガ」と「あなたまかせ」

なんつーか、パックのドラマとラジオマンガの記憶がごっちゃになってる
内海賢二さんが出ていたほうが、ラジオマンガと考えればいいらしい

中学くらいのころ、部屋には水森亜土画伯が描くところの、未来劇場のポスターがいろいろ貼ってあった。あれはどうして手にはいったんだろう?

東洋亭の冷中


 当ブログ・東洋亭パーツ館の名は、20数年前からつづけているホームパーティ「東洋亭」にちなむ。 とーこちゃんの東と私の洋をあわせた、とてもシンプルなネーミングだ。

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 これは21年前、結婚したときに、友人から贈られた東洋亭の看板(笑)。つまり、結婚する前からやってたんですよ、東洋亭。調布の義兄のアパートとか、当時は早川の社員だったHさんの、つつじヶ丘のマンションとかに出張したこともあるし。

 でもって、この東洋亭の看板料理は、じつは冷やし中華だったりする。(^^)

 ある世代のSF者は、冷やし中華に特別な思い入れがある。1970年代後半に乱れ咲いた狂乱のあだ花、「全冷中」ムーブメント(笑)があったからだ。だから、この世代は冷やし中華とは呼ばない。冷中が正しい名称とされる。ほら、ATOKも正確に変換するし。

 一方、私が料理をおぼえたのは、京王線府中駅前の中華料理屋であった。のちには居酒屋になったが、ここの厨房で足かけ7年かな、働いていた。

 師匠である店主は、気仙沼の某有名中華料理店で修行をした人で、したがって私が教わった冷中のたれも、気仙沼方面というか、宮城方面から直伝の製法である。

 それをホームパーティで出してたんだから、まあ看板料理になるはずで。 いまでも、秘密結社では「伝説の冷中」と呼ばれていたりするのですね。

 という、長~い前置きをしないと、本題にはいれないんで、これまで冷中のことはほとんど書かなかったんですが。

 これがわが家の冷中。

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 といっても、これは具だけ。具は麺とは別皿で用意して、好きな具を好きなだけ載っけて、好きなだけたれをかけて食うというスタイルがわが家流。

 つか、何度となく東洋亭で冷中パーティをくりかえすうち、こういうスタイルになったのであった。一部SF者にとっては、へぎそばがバトルなのに対し、冷中は宥和と博愛がテーマだから、具もわけあうという精神がここに発揮されるわけです。嘘。

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 この日の麺は地元、北川辺だったかな? の製麺所の卵入り。 近所のスーパーで売っていて、ここ数年はこれが気に入っている。

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 具をトッピング。私は全冷中でも「五行説派」だったので(笑)、その作法にしたがって、もやし、ハム、きゅうり、錦糸卵、紅しょうがは必須。あとは適当で(どこが五行説派やねん)、 この日はトマト、かにかま(とーこちゃんの好物)、海老、わかめのラインナップ。

 ここに、秘伝のたれをたっぷりかけて食うのですね。

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 今年はもう3回やったから、あと1回ぶんくらいしかのこってないけど。

 サイドメニューはそのときに応じて、棒々鶏だったり、餃子だったりする(もちろん、どっちも自家製)が、今回は真夏ということもあって、煮豚を選択。

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 昔ながらの味で、もう四半世紀以上つくりつづけている味ですが、ぜんぜん飽きないんだよねー、これが。

 今年はTOKONがあるから無理だけど、来年あたり、ひさしぶりにやろうか、東洋亭名物・冷中パーティ。なんちゃって。

 たれのつくり方はこちら

目黒さん


 いちぽん監督がブログ「しがらみ屋台」で、ほんものの刑事に会ったことがないと書いていた。

 そういや、そうかもなー。たしかに、あんまり会う機会はなさそう……と、つれづれに考えていたら、昔ひとりだけ、現役刑事を知っていたのですよ。そうそう。

 あだ名は目黒さん。10代後半から20代なかばまで勤めていた飲み屋の常連さん。といっても、くるのは東京競馬場の開催日のみ。なぜかというと、競馬場でスリをとりしまる係として、目黒警察署から派遣されてたのね。だから、あだ名が目黒さん。

 いまは知らないけど、当時は開催日には、この人以外にも、目黒警察署から応援がよくきていた。馬場が目黒にあったころのなごりだそうで。

 刑事といっても、わりと温厚で、どっちかというとやさしい部類にはいるお客だった。一般的には。

 でも、一度だけ酔っぱらって、ほかの客と喧嘩になったことがあったんだよね。

 そのときは、いつもと違うドスの効いた声でひと言。

「殺すぞ」

 これはもうまわりじゅう、びびりましたね~。マジで。この店は常連客率9割で、居あわせた大半が目黒さんの「正体」を知ってたから。

 私もすみっこで、「たしか、銃は返却してからきてるんですよね~」とか、ばかなことをいってたのをおぼえてますが。

 ちなみに、この店では、目黒さんつながりだったのか、府中署の刑事や調布の機動隊が毎年数件、忘年会をやってたんだけど、そのもようは…… 恐ろしくてとても書けない(笑)。

 なんつーことを思いだしたりして。

 締切をクリアした直後だから、余裕あるなー。ヽ( ´-`)ノ

【追記】
思いだすと、刑事って職業の人には、数十人単位であったことがあるんだった。3億円事件の聞きこみだけで、7~8回は家にきたし。アパート経営してたもんで。あと、この店と。

『ラドン』


 以前、このエントリーで、デアゴの「東宝特撮映画シリーズ」はいらないと書いたが、間違ってた。収録作品をチェックしたところ、『空の大怪獣ラドン』だけ、持っていないことに気づいたのだった。orz

 あれー、なんでないんだろう? ちなみに、ほかのラインナップでほしい作品は、『日本誕生』をふくめて持ってるのだ。『大怪獣バラン』や『宇宙大怪獣ドゴラ』も。

 思うに、じつはラドンはそれほど好きな作品じゃなかったりするのだった。これを怪獣映画の最高峰とする向きもあるし、秘密結社の界隈で頭目と呼ばれる先輩にいたっては、「怪獣映画で唯一、映画として成立している作品」とまでいってるけど。

 でも、私の感覚では、東宝特撮映画全体のなかで、ベスト10にはいるかどうかなのですね。

 ちなみに、好きなほうから、つらつら順番にあげていくと……

別格 29年版『ゴジラ』
別格 『ゴジラ'84』
1 『モスゴジ』
2 『3大怪獣』
3 『地球防衛軍』
4 『美女液』
5 『X釈由美子』
6 『マタンゴ』
7 『海底軍艦』
8 『怪獣大戦争』
9 『世界大戦争』
10『vsビオランテ』
11『白夫人の妖恋』
12『モスラ』
13『妖星ゴラス』
14『キンゴジ』
15『怪獣総進撃』
16『空の大怪獣ラドン』
17『サンダ対ガイラ』

 くらいかなあ。13~17はほぼ一線だから、ベスト10どころか、20にはいるかどうかの位置づけですね、ラドンは。

 でも、やっぱりたまには見たい作品ではあるので、先週、つい出来心で買っちゃったですよ、デアゴ版。

 これがまた、ありゃりゃんこりゃりゃん@花のピュンピュン丸で。きびしー!

(長くなりそうなので、こちらにつづく)

ライ麦畑で


 2日前だけど、サリンジャーが亡くなったそうだ。CNNの「『ライ麦畑でつかまえて』のサリンジャー氏、91歳で死去」という記事など。

 サリンジャーの作品は、『ライ麦』しか読んでないんで、べつに感慨もないんだけど、ひとつだけ。

 これを読んだのは中学2年のとき。図書館担当の先生から、庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』といっしょにわたされた。

 この先生は私の人生に決定的な影響をあたえた人で、ご本人は三里塚の闘士だったりしたのだが(笑)、なぜかすごくかわいがってくれたのだった。

 そーいや、姉弟のふりをして、夜のラジオ番組の公開放送@赤坂(^^)に出没したりもしたな。いまなら、ぜったい学校で問題になってただろうが、当時は平気だったのよ。たぶん。

 で、その先生から、あるときこの2冊をぽんと手わたされて、「きみなら理解できるから、読みなさい」っていわれたのですね。

 内容は……どっちかっていうと、庄司薫のほうがおもしろくて、『ライ麦』はほとんどおぼえてません。はい。でも まあ、内容じゃなくて、「きみなら理解できるから」っていわれて、気をよくして読んだっていう事実が重要なわけで。ヽ( ´-`)ノ

 とはいえ、14歳の子供にこれを読ませる先生もすごいし、読んじゃう自分も、いま考えるとすごいかもしれないと、ふと思ったりしたのですよ、けさ寝ぼけながら。

 それに、そういう先生と出会ってなかったら、たぶんいまの自分がなかったのもたしかで。

 その先生に、高校1年の2月ごろ、「作家をめざす」って手紙を書いたのも、いま思いだしちゃったぞ。その段階で、自分の人生の方向は、ほぼ決まったんだ。なるほど。

 と、サリンジャーの死をきっかけに、つらつら思ったきょうこのごろ。

 悦子先生の存在は、やっぱりすごく大きかったんだなあ。

#もうひとり、やっぱり中学の担任で、初子先生というねーさん先生@拓郎にも、
  決定的な影響をうけてるんだけど、その話はまたいずれ機会があれば。

柴野拓美さん、逝く


 柴野拓美さんが昨夜亡くなった。

 私がこの仕事にはいるきっかけになったのは、『東キャナル年鑑』で復刻した「宇宙塵版・派遣軍還る」だった。提供していただいたのは、もちろん柴野さんだ。

 直接にお話させていただいたことは、あまりなかったけど、私の人生をこっち方面に向けてくださった恩人のひとりなのは、まちがいない。

 最後にごいっしょしたのは、5年くらい前。 GATACONが終わった帰り道だと思う。箱根だったか、最寄り駅まで向かいながら、とりとめのない話をした記憶がある。

 今年は20年ぶりに東京で大会をやるのに、そこに柴野さんがいないというのは、なんとも想像できない。

 ただただ、残念であります。

ヤマト


 年賀状を書いていて、つくづく思ったんだけど、来年はよくも悪くもヤマトの年になりそうな気がする。

 いまやってるアニメ版は話題にする気もまったくないが、実写版となると、これはやや話が違うわけで。

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 きのう公開された、このCGを見るかぎり、CG部分もそこそこだと思うし。宇宙空間に大気があるように見えるのはともかくとして。

 これまで話したことはなかったが(こないだの忘年会で、はじめてしゃべった)、ヤマトは人生のターニングポイントになった作品だったりする。あの高校2年の秋、ヤマトがはじまらなかったら、たぶんいまの自分はない。

 はっきりおぼえてるけど、8月末くらいの新聞に、ちいさく「今秋『宇宙戦艦ヤマト』というアニメがはじまる」って記事が出たのよね。それだけの記事なんで、どういう作品なのか、そもそもどういう画なのかも、ぜんぜんわかんなかったんだけど。

 それでも胸が躍ったのは、やっぱり運命としかいいようがない。だいたい、この新聞記事がなかったら、たぶん『猿の軍団』のほうを見てたはずだし。

 で、オンエアがはじまったら、これがどまんなかストレートの剛速球でね。これでわしの人生が決まり。ヽ( ´-`)ノ

 翌75年、はじめて参加したSFファンダムも、SF界初のヤマト・ファンクラブCBYLだった。CBYLはCosmo-Battleship YAMATO Labの略。だから、私のなかでは、いまもヤマトはSpace-じゃなくて、あくまでCosmo-Battleshipだったりする。

 そのうち、SF界でも評価が高まってきて、再放送がはじまり、77年はじめには、当時みのり書房の社員だったNさん(どうも公表してないようなので、イニシャルのみ)が『OUT』の創刊2号であの名作「君はおぼえているか、ヤマトの熱い血糊血潮を」という特集を組んで、いっきにその存在がメジャーになり、わしもどんどんファンダムにのめりこんでいったわけです。

 ただ、それだけ愛着が強かったせいか、安易な商業主義とシリーズ化に反発して、劇場版『さらば……』で、自分としては決別を告げたのだった。が……

 実写でよみがえるとなると、話はべつだ。完全に別次元の作品と、わりきって考えられるから。

 そーいえば、こないだの忘年会で、だれかが「ヤマトとつきあうのは、両足に剣山が刺さった状態で、どこまでも階段を登りつづけるようなもの」と、いっていた。

 そうなんだよな~。この「ぐさぐさ感」はぴったりの表現なのだ。

 きっと、来年はずっとこの「ぐさぐさ感」がつきまとうと思うけど、それこそがヤマトなのであった。

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